SURFTRADERSはAddictionとSharpeyeのサーフボード正規販売代理店です

.

.

キャンベルがテイラー・ノックスを例にボンザーを説明

マルコム・キャンベルがボンザーの特徴、また、トライフィンからの乗換え方を、テイラーノックスを例に説明しています。テイラーノックスはボンザーのファンだからね。

記事はサーファーマガジン:http://www.surfingmagazine.com/news/malcolm-campbell-interview-bonzer-020608/

一部を翻訳したから見てください。

Taylor Knox – 5 Fin Bonzer – Mexico from Campbell Brothers Surfboards on Vimeo.

 

SURFER MAG:ほとんどの人がトライフィンに乗っているから、トライフィンと比較したボンザーを説明してもらえる?

マルコム・キャンベル:一つに、ボンザーはよりレールTOレールのサーフィンがしやすいよ。サイドフィンが通常のトライフィンより深くないからね。だらかレールが水に入ったり、出たりするのが簡単なんだ。また、エッジコントロールも簡単になるね。ラウンドハウスカットバックするときに動きが凄くスムーズになるんだ。トライフィンでラウンドハウスをすると一連の動きを数段階に分けて、最終的にスープに突っ込む感じだけど、ボンザーなら一連の動きを一つの流れとして完結できるんだ。スピードに乗りながらスムーズにラウンドハウスが決められるよ。

ボンザー 5フィン

ボンザー 5フィン

SURFER MAG:もし始めてのボンザーを手に入れるのなら、現在乗っているトライフィンのスペックをそのまま利用するべき?

マルコム・キャンベル:その通り、それが僕らが取っているアプローチだよ。もし、本当に好きなトライフィンのボードがあったら、基本的にはそれと同じボードのボンザーを作るべきなんだ。ボンザライズって言うのかな?そうするともっと冒険的なボードになるよね。

SURFER MAG:一般的にボンザーのセンターフィンは大きいよね?

マルコム・キャンベル:センターフィンは6、6.5、7インチの範囲だよ。一番多いのは6.5かな。あまりにも大きいので、始めてみる人は大抵びっくりするよ。“乗りづらいのかな?”なんて思われたりもする。でも、見た目と乗り味は全然違うよ。でも、このデザインが素晴らしいドライブを生み出すんだ。フィンは大きいけど、ルースな感覚なんだよ。テイラー ノックスは彼の6‘1の板に7のフィンを付けているんだ。彼のサーフィンを見たらとても7のフィンを付けているとは想像できないよ。ダニエル ジョーンズは6のフィンを使っているけど、乗っているボードは5’10だからね。

BONZER キャンベルブラザーズの歴史5

フランスのアディクションサーフボードはキャンベルブラザーズとも非常に仲がよく、キャンベルブラザーズのヨーロッパ販売代理店をしています。また、マルコムは頻繁に、シェイパーのレナウドとともにフランスでシェイプをします。 やはりボンザーといえば、生みの親であるキャンベル兄弟のことを知る必要があります。 キャンベル兄弟に関して非常に面白い記事(John Wythe)があったので紹介します。 (あまりに長い記事なので、数回に分けて紹介します。) 前回送った記事の続きです。ここではダンカンの現在の生活を知ることが出来ます。

アディクションのファクトリーでシェイプするマルコム

アディクションのファクトリーでシェイプするマルコム

 

ダンカンはハワイに戻ってから自分の探索に固執しました。 「私達はこの成功を通して、業界のトップにいる多くの人と対話できることを望みました。また、私達業界に携わるものが、海でサーフィンする子供達に、いやし、テレビからの解放、商業主義からの解放、そして自己中心的にならないよう、私達が模範となることを望みました。」 ダンカンが経営するハワイの喫茶店にはボンザー、そして多くのボンザーに関連した記事が壁に飾られています。多くのサーファー、雑誌関係者がこのカフェに立ち寄り、ダンカンとサーフボードデザインについて語り合います。彼は、彼の哲学に興味のある人とは喜んで話をします。

おしまい。

BONZER キャンベルブラザーズの歴史4

フランスのアディクションサーフボードはキャンベルブラザーズとも非常に仲がよく、キャンベルブラザーズのヨーロッパ販売代理店をしています。また、マルコムは頻繁に、シェイパーのレナウドとともにフランスでシェイプをします。 やはりボンザーといえば、生みの親であるキャンベル兄弟のことを知る必要があります。 キャンベル兄弟に関して非常に面白い記事(John Wythe)があったので紹介します。 (あまりに長い記事なので、数回に分けて紹介します。) 前回送った記事の続きです。ここでは、他社と共同して1つのデザインを共有することの難しさが伺えます。

アディクションのスタッフとフランスでサッカー観戦するマルコム

アディクションのスタッフとフランスでサッカー観戦するマルコム

 

1997年にダンカンは驚きの記事を読みました。そこには5フィンをラスティーがどのように考案、開発したかが記載されております。「フィッシングトリップに行った際に、釣れたマグロのヒレを見て思いついたんだ。インスピレーションを得た私はショップに戻り5フィンとダブルコンケーブをデザインしたんだ。」とラスティーは語っていました。 「サーフィン業界ではよくあることだけど、広告を沢山出せば、記事の内容もスポンサーの思い通りに書いてもらうことが可能です。」とダンカンは言います。

1999年の 5/24から28日にかけて5フィンデザインチャレンジが開催されました。ラスティーのウェブサイトには「トラッセルズにてラスティーの5フィンは観客を大いに驚かせます。ラスティーは5フィンに乗り試合で勝利したシェイパーおよびサーファーに2万ドルの賞金を与えます。ラスティーは最初に5フィンを1996年に開発しました。このデザインはサーフショップで大評判となり、最も人気のあるモデルです。5フィンはサイモンアンダーソンが開発したスラスター(3フィン)に匹敵するデザインの革新です。」・・・ラスティーサーフボードウェブサイト 1999 1月

ダンカンとマルコムがトラッセルで試合があることを聞いたとき、彼らは誤解を正す機会があると思いました。試合で彼らの5フィンが使われるので、メディアに誤解を正す機会があると思いました。キャンベルブラザーズが試合に出向くと、コンテスト前に、ラスティー側は5フィンの考案について誤った情報を流していたことを認め、訂正しました。

ラスティー側はデザインについてはキャンベルブラザーズが考案したことを雑誌に伝えましたが、「キャンベルの板はダウンザラインでは調子がいいが、ターンをするにはあまりよくない。」と言っていました。ダンカンはこれに強く反対し「僕たちの板に乗っている誰もが最高のターンを出来ることを知っている。」と語ります。

試合でダンマロイはキャンベルの板に乗って、最も高いスコアを試合で出しました。彼はボンザーには乗ったことがありませんでした。実を言うとその板はテイラーノックスのためにシェイプされたのですが、試合前にテイラーが足にけがをしたためダンが乗ったのです。ブラッド・ガーラックはキャンベルとドックのロゴがついたボードで試合に参加しました。また、ドノバン、ジョエルチューダーといったトップサーファー達も試合でボンザーを使いました。

最初に作ったボンザー5フィンは16年程たっており、それはハワイのショップに飾ってありました。ドノバンはハワイでその板に乗り、とても気に入っていたので、最初のヒートで使用しました。勿論ヒートを勝ち上がりました。  その次のヒートでドノバンはコーデルの板に乗りましたが、マロイとガーラックに破れました。マロイはセミファイナルで破れ5位でした。結局優勝はドックのライダーであるジェイ・ラーソンが勝ちました。

式典ではラスティー側がキャンベルブラザーズを5フィンの発明者として感謝を述べました。彼らはステージにマルコムを招待し、ファスティーはこの試合を講演してくれたことに対してマルコムにお礼を言いました。

「財政的には勝利ではないが、僕たちのデザインは勝利を収めました。ホローな波、グラッシーな波、ポイントブレイク意外でもボンザーが十分に機能し、ターンもスムーズであることを、試合を通して証明することが出来ました。」とダンカンは語ります。

パート5に続く。

BONZER キャンベルブラザーズの歴史3

フランスのアディクションサーフボードはキャンベルブラザーズとも非常に仲がよく、キャンベルブラザーズのヨーロッパ販売代理店をしています。また、マルコムは頻繁に、シェイパーのレナウドとともにフランスでシェイプをします。 やはりボンザーといえば、生みの親であるキャンベル兄弟のことを知る必要があります。 キャンベル兄弟に関して非常に面白い記事(John Wythe)があったので紹介します。 (あまりに長い記事なので、数回に分けて紹介します。) 前回送った記事の続きです。ここでは、ボンザーの技術を共有しながらも、その功績を他のシェイパーにとられていたキャンベルの苦悩が伺えます。

パッチンガムにはさまれレナウドの息子に笑われるマルコム

パッチンガムにはさまれレナウドの息子に笑われるマルコム

その後も、ダンカンとマルコムは雑誌と戦い続けました。

ナットヤングがサーフィンの歴史を取りまとめた本を出版した際に、キャンベルブラザーズをボンザーの開発者として取り上げませんでした。このことを知った兄弟は法的措置をもほのめかしました。勿論、彼らは勝ちました。本を再度印刷した際は、キャンベルブラザーズがボンザーの開発者として紹介されました。

しかし、その後も雑誌編集者の誤解には悩まされました。1989年に雑誌サーフィンは「3フィンの開発者であるサイモンアンダーソンはその謙虚な姿勢にも関わらず、パフォーマンスサーフィンの世界を永遠に変えた。」と記事に記載しましたが、1年後の1990年には「サイモンアンダーソンの10年前にキャンベルブラザーズは機能的な3フィンを既に開発していた。」と記事に記載しました。

マルコムはカリフォルニアのベンチュラでシェイプを続け、ダンカンはオアフ島に移住し、カフェ(Haleiwa)を開きました。彼らはボンザーがベストのボードと信じ続け、ボードを他のライダーに乗せたりし、サーフィン業界の技術革新に貢献し続けました。彼らはトライフィンでコンケーブの入ったボンザーを開発しました。

1982年にキャンベルブラザーズは新しい実験を始めました。2つのフィンをボードに追加したのです。「我々は5フィンがサーフィン業界に革命を起こすと思う程、このフィンセットアップは機能しました。そのため、1973年と同じように、ボンザーの設計図を発表しました。1991年位ラスティーと彼のスタッフにボードのテンプレートを渡し、ボンザーをどのように作るか教えました。ラスティーはこのアイディアを気に入り、最終的にラスティーのロゴが入ったキャンベルブラザーズのボードが出来上がりました。」 大部分のシェイパーが自分だけ有名になることを願っていた時に、キャンベルブラザーズは競争ではなく、協力を選択しました。彼らの技術がサーフィン業界の進化に貢献すれば良いという思いで、技術を共有し続けました。 マルコムは「技術を共有することによって、技術的な停滞から次のステップへ進むことが出来る。しかしながら各シェイパーが自分の成功のみに固執すると、技術の進化が遅くなります。」雑誌サーファー 1990 9月

パート4に続く。

BONZER キャンベルブラザーズの歴史2

フランスのアディクションサーフボードはキャンベルブラザーズとも非常に仲がよく、キャンベルブラザーズのヨーロッパ販売代理店をしています。また、マルコムは頻繁に、シェイパーのレナウドとともにフランスでシェイプをします。 やはりボンザーといえば、生みの親であるキャンベル兄弟のことを知る必要があります。 キャンベル兄弟に関して非常に面白い記事(John Wythe)があったので紹介します。 (あまりに長い記事なので、数回に分けて紹介します。) 前回送った記事の続きです。ここでは3フィンの開発者でありながらも世に認められなかったキャンベルブラザーズの苦悩が伺えます。

レナウドの息子のパッチンガムにはさまれるマルコム

レナウドの息子のパッチンガムにはさまれるマルコム

1972年にはアメリカの雑誌に当時としては斬新的な彼らのボンザー(3フィン、ダブルコンケーブ)が発表されたため、キャンベルブラザーズは世界的な注目を集めました。当時はシングルフィン、また、新しくツインフィンが出てきた時代なので、彼らのボンザーは変なボードとして周りから見られていました。

キャンベルブラザーズはビングサーフボードに行き、ボンザーのデザインを販売してロイヤリティーをとるビジネスを始めました。しかし、ビングの生産者が近道をしてボンザーのデザインを変えまじめた時に問題が生じました。 「コンケーブとフィンは2つがそろって機能します。チャンネルを問うして水流が早く流れるのです。コスト削減の為、ビングはコンケーブの部分でビングは手抜きをしたのです。それは彼らがボンザーを重要視していなかったことと考えられます。我々は僕らのデザインが滅茶滅茶になるのを、抗議することが出来ず、見ているだけでした。我々は彼らがボンザーという名前の板を販売し続けることに同意しました。しかし、キャンベルブラザーズの名前はこれ以上使ってほしくなかったし、彼らからは一銭もお金をもらいたくなかったのです。」 それでも、やはり問題は発生しました。手抜き作業が板のスピードとパフォーマンス性能を落としたので、メディアから批判が出てきました。一つの雑誌はボンザーのフィンを「自転車の補助輪と呼びました。」。サーファー誌は、「ボンザーは大々的にキャンペーンされて知れ渡りましたが、ボンザーのデザインが何を意味するのかはおざなりにされました。」。

キャンベルブラザーズは静かにサーフィンビジネスの世界から一線を引き、ホームタウンに帰りました。 デザインをコピーするのは簡単です。でも、何か別の理由のため、誰も私達のボンザーを作ることは出来ませんでした。

我々は5年にわたってボンザーを研究し、テストしてきました。 変更されたデザインにも関わらず、ボンザーは70年代に素晴らしい評判を得るボードとなりました。

1973年にはオーストラリアのイワン/カーリンがボンザーにとってしみオフプロで優勝しました。ボンザーに関する写真や記事が大々的に取り上げられました。サーファーマガジンは「行きたいところにボードをコントロールでき、また、ホローな波でもうまく乗れるこのデザインは後十年は続くだろう」と記事に発表しました。しかし後になってサーファーマガジンは「70年代の後半にはボンザーが流行から遅れていた。」と発表しました。 その理由としては、当時マーク・リチャードが通常のボードより6インチも短いツインフィンに乗り始め、数々の試合に勝ったので、多くの人がツインフィンに乗るようになったのです。 「突然、サーフボードデザインの革命が起きて、ボンザーはその存在価値を失い始めました。

しかし、私達はボンザーのコンセプトが正しいと考えていたので、ボンザーの開発を続けました。3フィンが最も優れたフィンシステムで、何れは3フィンが主流になると考えていました。主流になるのはツインフィンではないと考えていたのです。」  キャンベルは正しかったのですが、誰もその事実を認めませんでした。そのかわりに、後になって別のチャンピオンサーファーが出現し、サーフィン界を大きく変えました。彼自身の発明として3フィンを最初に開発したとして有名になり、数々の試合に勝つことにより更に有名になりました。 「サイモン・アンダーソンは3フィンを発明したメシアのように扱われました。僕らは10年にわたって3フィンの開発に取りかかってきたので、科学的な根拠に基づいて3フィンの優れている点を証明できました。サイモンはそれが出来ませんでした。しかし彼はプロのサーファーで、雑誌にもよく登場するサーファーです。商業的なサーフィン業界はかれを3フィンの発明者として大々的に取り上げました。」

1990年に彼と彼の兄弟が、サイモンが3フィンの開発者として認知されたことについてどう思うかサーファーマガジンのライターに聞かれこう答えました。「複雑な心境です。3フィンが最も優れたボードとして認知されたことは僕らの研究が間違っていなかった意味で良い結果です。しかし、ボンザーが忘れられ、誰もボンザーの素晴らしさを再検証しなかったことには失望しました。」 ダンカンは雑誌が正しく3フィンに歴史について取り上げないことに頭に来ていました。

パート3に続く。

BONZER キャンベルブラザーズの歴史1

フランスのアディクションサーフボードはキャンベルブラザーズとも非常に仲がよく、キャンベルブラザーズのヨーロッパ販売代理店をしています。また、マルコムは頻繁に、シェイパーのレナウドとともにフランスでシェイプをします。 やはりボンザーといえば、生みの親であるキャンベル兄弟のことを知る必要があります。 キャンベル兄弟に関して非常に面白い記事(John Wythe)があったので紹介します。 (あまりに長い記事なので、数回に分けて紹介します。)

レナウドの息子にパッチンガムを勧められるマルコム

レナウドの息子にパッチンガムを勧められるマルコム

1970年にオックスナード出身の長い髪をした二人の兄弟が第一号のボンザーを作りました。その当時としては過激な見栄え、3フィン、ダブルコンケーブ、スカッシュテールで6‘2のボードでした。

マルコム、そしてダンカン、キャンベルの二人は無名なシェイパーとしてカリフォルニアのベンチュラであくせくと働いていました。 残念なことに、革新的なデザインの多くが見過ごされて、キャンベルブラザーズはそのキャリアの長きにわたって無名な状態が続きました。

1966年にダンカンとマルコムはサンタモニカでサーフィンを始めました。年は14歳と、11歳で、数年後にオックスナードから家族で引っ越ししてからもサーフィンを続けました。 ダンカンは「その当時、皆ロングボードからショートボードに乗るボードを変え始めていた。だけれども、数少ないサーフショップしかショートボードを取り扱っていなかったので、最初はロングボードを短くして、シェイプし直していたよ。でも、そのうち、ブランクスを直接買って、自分でボードをシェイプし始めた。」と言っています。 その当時、彼らの父のジャック・キャンベルはフォトジャーナリストとして働いていました。父は彼らに、彼らの作ったサーフボードが流体力学的に優れていないことを教えました。 HULLに関する本を彼らに買い与え、ベルヌーイの理論を教え、科学的な要素をサーフボードデザインに取り入れるよう諭しました。

1970年代、3フィンの開発に取りかかっていたグループは3つありました。オーストラリアのボブ・マクタビッシュ、ハワイのディック・ブリューワー、リノ・アベリア、そして、キャンベルブラザーズです。しかし、彼らのデザインとキャンベルブラザーズのデザインでは2点違いがありました。キャンベルブラザーズはサイドウィンを前に、そして、センターフィンを後ろにセットアップしました。キャンベルBOR以外のシェイパー達はサイドフィンをセンターフィンと並行、もしくは後ろにセットアップしました。 キャンベルブラザーズのデザインは今日一般的に使用されている3フィンシステム(スラスター)と全く同じデザインだったのです。この意味で、キャンベルブラザーズは今日使用されている3フィンの元祖と言えます。

第二に、キャンベルブラザーズは実験を繰り返しました。スラスターに挑戦したキャンベル以外の人たちは、3フィンをあきらめ、ある人々は3フィンのデザイン自体を避難し始めました。しかし、キャンベルブラザーズはしっかりとした原理に基づいたビジョンを持ち続け、研究を続けました。3フィンの研究を続け、チャレンジを受けていました。彼らの父親は研究の成果を文書化するよう彼らに薦め、その結果、ボンザーの写真、研究結果を雑誌に載せるまでに至りました。 そして、マルコムとダンカンは彼らのデザインの特許権をとらないことを決めました。雑誌編集者達は、ボンザーのデザインが将来的にお金になると見ていたのです。それに対しダンカンは「特許を取ってどうするの?設計図を雑誌に発表するし、元々この記述は使いたい人には是非使ってほしいと思っている。この仕事はサーフィンの技術が進化するためにしました。消して僕たちの名誉や富のためにやった訳ではありません。サーフボードデザインに関してはオリジナルの考えがあるとは思っていません。既に存在する素晴らしいアイディアを組み合わせて、より優れたボードを作るのが僕たちの目的であり、実行してきたことです。」

その頃、彼らはボンザーに信望するスローガンを書き始めました。「ゴールドよりも愛、金のためでなく常に愛を選べ」といったメッセージでしたが、企業としてメッセージを発信するには、ある程度の商業的は成功が無いと難しいことをしりました。それには気をつけるべきことがあり、マーケットには参加するが、マーケットに振り回されないことです。それにより、自分たちの信じる価値観を守り続けることが出来ます。

パート2に続く。